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非非科学的非科学再考


弁護団の主張は、「非科学的」か

 事件についてはここでは触れない。かつて光市母子殺害事件弁護団の一人であった今枝弁護士のブログ記事のタイトルを先に掲げた。懲戒請求の大部分が、弁護団の非科学的な主張を、懲戒請求の理由の一つにあげているという。事実がブログに記載の通りであれば、確かに今枝氏が述べるように「ドラえもんがなんとかしてくれる(と被告人が思った。)」までが非科学的なのであって、その妄想を被告人が他者に告知する段階に至っては、すでに非科学的とは呼べないし、ましてや弁護団がその内容を代理に主張することが非科学的であろうはずがない。この意味において、上の記事では、弁護団に着せられた「非科学的」という汚名を拭い去ることに氏は成功しているように思われる。

 
私がひっかかるのはそこではない。それは、科学に対する弁護団の認識に関することだ。今枝氏は言う。「鑑別技官や家裁調査官が判断する上で用いる心理学的書見は、一応、科学とされています」。ここで、氏は「一応、されています」と、科学か否かについての厳密な議論をひとまず置いた
上で、自らの主張の根拠となる心理学の信頼性を高める目的で「科学」を使用している。ところがその一方で、信頼に値するはずの鑑別記録による「被告人の発達レベルは4~5歳程度」という部分については、「あまりに極端」という理由で「おそらく11~13歳程度だったのではないかと考えています」と不用意に述べるのである。

  つまり、弁護団は、主張に説得力を付与する科学の武器性を認識しながら、自己に不都合な場合には信頼性を無視するというふうに、ご都合主義的に信頼性を付与または剥奪する姿勢をブログで露呈しているのである。本来、科学は、文化や時代を超えた汎用性をもつという意味での普遍性を基盤とした、厳密的因果性を命脈とする学問であるはずだ。自己に有利に作用する場合だけ科学的結論に確実性を付与し、不利に作用する場合は付与しないという操作が可能な次元に人間は生きていない。恣意に従属せず平等に厳酷である側面において、科学は強度の客観的説得力を維持しているのだ。
したがって、心理学が一応であれ科学であるならば、「おそらく11~13歳程度」という見解は、科学の不理解に因る曲論と言わざるを得ない。この見解を思いきり平易に言い換えるならば、一日10個のリンゴを食べる人が一週間で70個食べることになるのを、「あまりにも多すぎる」という理由で50個とするのと本質的に等しい誤謬を、弁護団は意識的に犯しているのである。

 あらかじめこうした批判を封じ込める意図で、弁護団が「一応、されています」という曖昧で無責任な予防線を張ったとしても、心理学の厳密的因果性云々というより、科学的結論の確実性を恣意的に取捨する弁護団の姿勢
は座視するに堪えないそればかりか、もし「あまりに極端」という理由が通るように科学を認識してしまうと、鑑別記録の、弁護団が説得力を持たせたい部分までが、都合により確実性が増減する、信頼に値しない「科学なるもの」から導かれた帰結に含まれてしまうという不利益に、弁護団がどれほど自覚的であるか。

 弁護団の、科学に対する認識の問題を提起することなく黙視する立場は
、少なからぬ影響力を持つであろうブログから科学に対する粗野な認識が流布される事態を容認し、理論体系の意義を壊廃させかねない亀裂の放置に等しいとさえ私には思われる。深い関心を抱き、頻繁に氏の記事を閲覧する読者の一人として、刑事司法の実務を知る上での良質なサイトの紹介も兼ねてこの記事を書く理由の一つは、論語に「見義不為 無勇也 (義を見てせざるは勇なきなり)」という言葉があるからだ。

 


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コメント 2

今枝仁

TBとご意見ありがとうございます。

反論というか、言い訳になるかもしれまもしれませんが、私は、「心理学は一応、科学である」が、「科学とて、絶対的ではない。」という認識に立っています。よって、根拠として援用することはできても、批判的な観点からの吟味は必要だと思います。
つまり、鑑別記録などの心理学的な分析は、「科学的な根拠を持ち、一定の信頼性がある」が、「その中身が信用できるかは、別問題である」という理解です。
また、鑑別記録につき、教授職を持つ心理学者が、「4~5歳とする部分は言い過ぎ。11~13歳くらいが正当であろう。」という鑑定書を作成している、というのも根拠です。その説明が不足していたのは申し訳ありません。
そして、同じソース中でも、不合理と思えるような部分に批判的になり、合理的と思える部分を積極的に援用する、というのは自然科学と人文科学の架橋的な科学である心理学を元に、社会科学である弁護活動をなす上では、当然許される態度だと思います。その主張が容れられるか、説得力がないとして排斥されるかは論理の是非の問題であり、今問題にされているのは論理の成否の問題と思います。

批判されることで、自分の見解がどう見られているのかが分かり有益なので、今後ともよろしくお願いします。
by 今枝仁 (2007-12-26 17:33) 

機械使用者

今枝様

ご返信ありがとうございます。こちらこそ、今後ともよろしくお願いします。
by 機械使用者 (2007-12-28 19:40) 

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