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初裁判録

黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒ならば黒なのだ。

「民主主義の政治形態には大義なんてものはいらない」と三島由紀夫は言った。そう言っている映像を、視た。しかし、事実を事実としない嘘つきの人間だけで社会を構成出来るとは思えない。そこは、価値観云々以前に会話すら出来ないメチャクチャな状態であろう。だから、男にとっての水は、同時に、女にとっても水であって、五は五であること、すなわち同一律というのは、民主主義であろうがなかろうが、戦前戦後を問わず大義なのだ。広辞苑第五版によれば、大義の項には『一.重要な意義 二.大切な意味』の順に文字が並べられている。或る言葉は、まず第一に、なによりも、その言葉自身であらねばならぬ。これは、重要で大切だ。したがって、宇宙の大義は同一律である。

先日、自分が当事者となった裁判を終えた。私が原告となり、不動産管理会社を被告とした生まれて初めての民事訴訟である。第一回口頭弁論で、争点は二つに絞られたが、そのうちの一つは、被告の「嘘」が原因で発生したものである。上段の意味において、被告は、本来、宇宙から言語空間反逆罪に問われてしかるべきであった。あらかじめお断りしておくと、まず前提として、「被告の嘘」という私の主張が、実際のところ本当か否かは、ここでの重要な関心事ではない。ただ、「正解は一つに限らない」とか「真実は神のみぞ知る」みたいな一般化された意見は根強い人気があるけれど、少なくとも今回の事件の正解、すなわち「事実」は、誤認と記憶違いを除けば歴史的にただ一回だけ地球上に生起したのであって、この場合、それを知るものは、私と被告の二人いて、二人だけだ。だから、この場合、「正解は一つに限らない」は誤りであって、「真実は神のみぞ知る」も、原告と被告を神としない限り誤謬となる。「殺人事件はなくならない」「交通事故は防げない」といった消極的断定に見られる諦念への傾斜を、私は嫌う。今、私は、故意と過失の境界問題をここでは語っていない。

要するに、被告が嘘をつかなければ争点は一つ減ったのである。詭弁を弄してまで黒を白と言わせるのが弁護士であれば、黒は黒とあくまでも言い張る人間が居てもいいだろう。というよりも、黒は、やはり黒であらねばならないし、白は白でないと私は困る。それに、やっとの事で相手に「白」と言わせることに成功しても、その白が実は黒であったら困るのではないか?というよりも、それで困らなければおかしいから、困って欲しい。黒が黒であることは、人間の経験に先だって成立している。黒を白と言わせることなかれ。仮にある人間が、黒を白と「言った」としても、それと無関係に黒本体はそのまま黒で在り続けるのだ。そこで、裁判を始めるにあたり、黒を白と言わせようとする詭弁家を想定して、まずは論理学を学ぶことから始めようと思った。参照したのは、野矢茂樹「論理学」(東京大学出版会)。だいたい二百ページをかけて読者がゲーデルの不完全性定理を鑑賞できるようにするというもの。「本=本」が、ここで証明されている。同一律の証明が面白い。

法哲学者の碧海純一は「合理主義の復権」の中で、(引用開始)『19世紀以来のヨーロッパ大陸の,そして,昭和初年以来の日本の,思想の歴史を通観して感ずることは,徒に晦渋難解な言語的煙幕に身を包んで明晰な論証を拒み,理論であると自称しながら実は知性よりは情念に訴えるたぐいの著書論文が間歇的に流行してきた,という事実である。(中略)肩を怒らせて都大路を闊歩していたこれらの時代の思想的旗手たちは,新時代のパイオニアを以て自ら任じ,かれらに喝采を送った観衆たちもそう信じていた。しかし,思想史という長距離ゲームを多少とも巨視的に見るならば,眼前で颯爽と先頭を切っている走者が,実は1周も2周も遅れているということも決して稀ではない。「先祖がえり」型の蒙昧主義が再び時を得意顔に跳梁する今日の言論界において,西欧文化の最大の遺産の一つとしての合理主義が不当に歪曲され,呪詛されている状況は,黙視するに忍びない。』(引用終わり)と語っている。

被告が所属する組織の利益を優先するために、宇宙同一律に抵触し続ける態度は、合理精神の放棄以外の何ものでもなく、甚だしく信義に反する。法律の非専門家が本人訴訟を起こす際に重要なのは、専門知識でも弁護士費用でもなく、思考の論理的な正しさだ。論理学は、思考が合理的であるか否かを思考者以外の第三者が客観的に判別出来るようにする定点を、それ自体が有していることで、その定点に、権力は決して干渉出来ない、というところに最大の特徴がある。「悪法も法なり」という言葉があるけれど、「悪法は法なり、ではない」という考え方に、私は立脚している。法よ定点を護れ。「窓を開けてくれ」という要請は、本来、窓が閉まっている時に発せられねばならない要請なのだ。論理的に言って。一人の人間が生み出した回答が、道理に反するか反しないかを、論理学は明確に区別する。そして、その答えを曖昧にしない。そこは、思案者に、陽のもとに正答を突きつける善意のない残酷な世界だ。事実を事実としない詭弁を被告が展開するならば、こちらとしては「事実は事実である」という命題の真正さから強固に訴訟基盤を造り上げてゆくほかない。私が忌避嫌悪するところの衒学的レトリックや詭弁は、今やすべて被告により象徴されることとなり、弾劾対象として照準が定まりつつあった。

私は、電話の中で「被告はコレコレと言った」という事実の立証責任を負った。電話があったという現実は電話会社の通話記録が証明する。しかしながら「コレコレと言った事」を証明するのは決して容易ではない。「コレコレ」が重要だからである。言った言わないの争いを調べてみると、外国人差別発言が実際にあったか否かで訴訟に発展した例はある。一般に「言った言わない」論争の場合には、録音テープなどの直接証拠がなくとも、第三者に対して「被告が~と言った」としか考えられないほど強い心証を形成出来れば勝ちになる。しかし、心証という不確実なものに期待するのではなく、裁判前半は準備書面上で、あたかも数学の方程式を解くように批判の余地を一切残さない確実な段階をふんで、演繹的な証明を試みることにした。「言った」や「走った」という能動的事象を主張する側が嘘をついていると、それは一般に捏造と呼ばれる。捏造されて被害を受けた側は、統計的に高い確率で怒りの感情を抱くものと予想出来るが、それが発生していない態様を基軸に論証を展開するのは、少なからず第三者に対して説得力を持つだろうと考えた。つまり、もし嘘をついているのが私の方であれば、普通相手は怒るだろうと。先方が怒ってないのは、私が嘘をついていないからだろうと。一応、こうゆう理屈である。

そこで、「日常生活における不公正な事象の経験と感情的反応」(「感情心理学研究 第四巻 第一号」日本感情心理学会)という文献を読むために、日本大学文理学部心理学科を訪ねることにした。私にとって、心理学教授との初の出会いである。文献中の実験は、被験者に不公正な事象を実際に体験させる類のものではなく、被験者の想像力に依拠した「不愉快な気分にさせる質問」の形式をとっており、やはり高い確率で被験者は「怒り」の感情を抱くことが実証されていた。実験対象が二十代という年齢のせいもあり、多くの質問において、不愉快な気分を想像した被験者が表現語として選択したのは「むかつく」であった。「捏造であれば怒る」の対偶は「怒っていなければ捏造ではない」だから、「捏造であれば怒る」が真と証明されれば、論理必然的に「怒っていなければ捏造ではない」も真となる。しかしながら、捏造されても怒らない穏和または鈍感な人が現実世界に一人でもいる可能性が残る限り、この方法をもってしても「言った」ことの完全証明に至ることはないのだ!無念。私が背負っている「被告はコレコレと言った」事の立証が極めて困難であるという現実を、被告はおそらく知りながら信義に反する生活を営んでいる。被告の人体の原子配列を精緻に調べ上げ、ある特定の日に、その内容の発言を実際にしていないことには現在の被告の人体を構成している原子配列にはなり得ない、という科学的証明が結実する日が訪れないと思っているのだろう。つまり、被告の身体そのものが過去の言動の「証拠」になる日が。私は、この時ほど強く嘘発見器の出現を望んだことはない。古、笞刑執行人の振りかざす鞭の速度が人によって異なるという民衆の不満は、人類に自動鞭打ち機械を発明させ、その結果、鞭速度の均等が実現し、民衆の不満は解消された。また、写真機は、特定の人物だけを意図的に大きくすることや小さくすることをしない。ひとつの光線は、ネガフィルムに、陰影を、人為を経ず自然に従って定着させるだけだ。よって、嘘発見器は、故障はしても嘘をつくことがない。

のちになって、心理学研究室で厳島教授にお聞きした、「嘘をつくために嘘をつく」ということばを思いおこし、裁判後半は、前半のような演繹的証明だけでなく、被告へ質問を投げかけることに重点を移すことにした。これは大きな転機である。コチラとしては被告が嘘をついているという心証を裁判官に形成させればよいわけで、なにも美しく証明する必要はない。質問と回答のやりとりを第三者が継続的に聞いていれば、どこかで被告の回答の不自然な点が浮かび上がるに違いないのだ。裁判官に、被告が嘘をついているという心証を、どの程度抱かせることに成功したかを今となっては知るすべはないが、それも実に興味深い。その意味で、相手の嘘を剔抉する効果的な質問の作り方を学ぶ必要があったとも言えるのだが。しかし、この質問法は効果アリと見え、結果として、被告から敗北宣言とも受け取れる初の和解要請案を引き出した。「嘘をつくために嘘をつく」。。。「嘘をつくために嘘をつく」。いったん現実から乖離した非現実は、ある操作の反復によって、乖離の度合いが増えることはあっても減ることは起こりにくいだろう。剥がれかけたペンキは、時間の経過と共に、初期状態に復帰するのではなく、剥離の度合いを増してゆく方向に進行するように。う~む。上手に質問を作れば見抜けない嘘はないような気もしてくる。また、裁判が進むうちに争点が徐々にぼやけ、人格攻撃に転じる事があるとは知っていたが、被告の発言を感情心理学の見地から立証しようとした私の行動がどうやら奇異に写ったらしく、私の性格を几帳面と断定し強引に矛盾を導くという人格攻撃に被告が転じたのには驚きの念を禁じ得ない。論争とは、争点の対象を直接的に人間としない限り、あくまで争点について論じあう事であって、論じている「人」を論ずるものでは無い事を被告は理解していなかった。集中力の欠如に起因する、争点の、「なんら面白みのない方向へのズレ」が発生したのである。それと、国歌斉唱義務不存在確認等請求事件の判決文(難波判決)を読んでいて、憲法理念の淵源のようなものを直観し、裁判官が強く和解を勧める理由を一応は合理的であると判断したことも終結に少なからず影響した。

裁判所には、不明点を訴訟当事者に問うことの出来る釈明権(同時に義務ともされる)が与えられているが、第二回口頭弁論期日に公平中立の立場にいるべき裁判官の発言が中立性を失ったと感じた瞬間があり、どのような理由で裁判官の発言が中立に抵触しないのか、自分の判決の行方よりもむしろその点に関心が移行したと言ってよい。「人とは何か」という種類の問題ではなく、中立性や公平性が保たれる、事実としての理由を知りたいという願望が上回ったのである。それを裁判官の口から直接聞くこと、そして、とぼけ始めた被告との裁判をなるべく早く終らせる事が、夏頃に考え出した、私にとって一番面白い終わらせ方である。そう、数ヶ月にわたる裁判のようなシンドイ問題は、どうしたら面白いかを考えながらやっていかないと身が持たないのである。しかし、普段の傍聴席は、被告あるいは原告として、自分の裁判が始まるのを待機する人達で椅子が埋まっており、法廷で裁判官に個人的な質問を投げかけるのは憚れる。仄聞するところによると、ロンドンの裁判所では、裁判官が法服を着てさらにカツラ(wig)を着けており、日本以上に演劇的とも言えるほどの権威感を醸造させているらしいが、地元の簡易裁判所の法廷は、そこまで演劇的な空間ではない。勘違いかもしれないが、むしろ権威を醸し出させ過ぎない意図を建物の外観に観てとることも出来る。和解は裁判所を経由することなく当事者だけでも進めることも出来るが(訴訟の取り下げ)、裁判所で和解した場合は、判決と同じく強制力が付随することが大きな違いである。せっかくだから程度の理由で裁判所内で和解をすることにし、私と被告、そして裁判に同席している有識者の一人と、法廷とは別の小部室で具体的和解案の相談をした。しかし予想外に時間がかかり、たまたま終わった時間が昼休みに突入し、法廷に戻った時には幸い傍聴人が一人もいなかった。小部屋で有識者が読みあげた和解案を、再度形式的に裁判官が読みあげ、その後、抱えていた疑問点を直接裁判官に質問することができて、回答を得て、疑問は解消された。こうして十ヶ月におよぶ初訴訟はついに幕を閉じたのである。

井上達夫の「共生の作法」(創文社)で遭遇した衝撃を契機として以来、法への関心は常時ある一定の割合を占めるようになり、それ以降、主に法哲学を中心に本、年報、判例を問わず耽読してきた。それらは、言い回しの妙、隙間を埋める緻密な論理で構成されている。例えば、丁寧で慎重に組み立てられた判決の「理由」は、好奇心さえ切らさなければ誰にでも理解できるという公平さが保証しているから、徒に難解で思弁的な書物とでは、おのずと向き合う姿勢も違ってくる。人間の、事実としての考え方を知ることが出来るのだ。そこには、読者を煙に巻こうという策略が皆無である。だから、よい。中でも、澁澤龍彦が昭和34年に翻訳したサドの「悪徳栄え(続)」が猥褻文書にあたるとして、現代思潮社編集長の石井恭二と共に澁澤が在宅起訴された事件、通称サド裁判においては、特別弁護人として埴谷雄高、遠藤周作、大岡昇平、吉本隆明、大江健三郎らが文学者としての対場から法廷で証言し、それを教師や保護者、検察側が論難する対立を主軸とした訴訟構造となっており、政治犯や「百科全書」と共に監禁されていたバスティーユ牢獄から、既存の道徳や宗教的権威に壊滅的打撃を与えたサドの「悪徳の栄え」本体もさることながら、この事件を纏めた現代思潮社の単行本「サド裁判」は、猥褻概念をめぐる価値観の相対性を提起したという意味においてではなく、近代分業意識によりもたらされた道徳観の相違が極めて顕著に浮かび上がる事案を克明に記した、という意味で決定的に面白い。石井恭二が法廷で放った「一体、本とは何なのか」という根源的問いかけは、決して法廷内の一時的な問いかけとして消滅しておらず、その問いかけへの反響的回答として、書物の紙材内部から読者へ向けて、再度全く同じ問いかけをし直す谺の作用を雄弁に物語るものだろう。私は谺を聴いたのだ。この難問は、木と本を区別する、わずか一本の棒と対峙することと同義だ。「サド裁判」の全編に迸る原告被告双方の迎撃性は、18世紀に書かれた「悪徳の栄え」に内蔵されている爆砕的敵意の、正統的第二次産物と認定するに足る総合的破壊力を有すという意味において、数ある文学裁判中の白眉とすることに逡巡しない。

また、同猥褻裁判である「チャタレー事件」の最高裁判決文の中で、裁判官は、「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても、裁判所は良識を備えた健全な人間の観念である社会通念の規範に従って、社会を道徳的退廃から守らねばならない」という激越とも言える口調で己の判断を絶対化し、上告を棄却する理由を書いているが、同裁判官のうちの一人である真野毅により、「このような気負った態度は、独断や安易な直観により、個人差の多い純主観性ないし強度の主観性をもって、事件を処理する結果に陥りやすい弊害を伴うに至る」という至極真っ当な批判を加えられている。

再来年から裁判員制度が始まり、市民は新たな意識に移行する。権力の濫用を抑止する目的が保持していた強い一次性が、現実社会と法律世界の不連続を生み出し、その断絶を解消するためにもより濃厚な普通を法感性に持ち込む必要があった。しかしどれほど裁判が身近になったとしても、米国のようにクリーニング店が、客としての裁判官から預かったズボンを紛失しただけで六十億円の損害賠償を求めて裁判をおこされるような訴訟社会への移行には加担出来ない。現代では、上記の真野毅が立脚するところの、標準的市民感覚こそが強く要求されるべきものであって、黒を白と言わせる術に長けた詭弁家が跋扈する社会は決して望ましいとは言えない。先日も「祭による死」の責任を問う訴訟が、祭の主催者を相手に提訴されたばかりである。また、解決可能性につい懐疑を挟みたくなるような「宗教と法」などの難問は、裁判官が己の抱く宗教観から完全に独立して判断することが可能かといった観点も読み始める直接の契機となり得る。人間は、訓練によって好悪から離れ、どこまで価値中立的でいる事が出来るものなのか。判決文の理由を読むという行為は、場合によっては唯一の正しい判断を知ることではなく、説得力に富み、論理的に正しい考え方の、結論に至るまでの道筋を辿ることに他ならない。ある一つの事件の判決文の、一つの争点についての判断の、始審からのデジタルな(数字的な)推移を集中して検証する時、本来委ねられる事が好ましいものとは思えない偶然性の影響から判決は無関係ではいられないという印象を、私は払拭することが出来ない。数名いる裁判官の内の一人が、もし別の裁判官になっていたとしたら反対の判決が出るだろうと思えるくらい微妙な価値判断が、判決には決定的な影響を及ぼす。

裁判員制度を始めるにあたり、私は、二点の要望を最高裁判所と日本弁護士連合会に提出した。第一に、自白については、取り調べの「全過程」が可視化されていないとそれが任意なのか強制されたのかが裁判員には判別出来ないから、取り調べの全過程の可視化が必要である事。取り調べの録画を開始して最初に、被疑者が、録画開始時点までに外部からの威迫を一切受けておらず、任意性に基づいて発言を始める主旨の宣誓をするか、または、弁護士に同席させるかをして、それに続いて取り調べを実質的に始めるというふうに、その任意性の信用性を可能な限り高める工夫をすべきである。第二に、もし被疑者の住居から血痕の付着した衣類が発見され、その血痕がDNA鑑定によって被害者のモノであることが明らかになった場合、裁判員は、普通、被疑者と被害者には相当な因果関係があると推知する。しかし、たとえ科学的にその血痕が被害者のモノであることが完全に証明されたとしても、何者かが被疑者を陥れるために血痕を付着させた等の、証拠捏造の疑義が払拭されていなければそもそも因果関係は判断出来ない。したがって、証拠の捏造を出来にくくする制度が今後より一層強く求められる事の二点である。捏造された証拠を信じて不本意な判決を下した裁判員は、生涯にわたって嫌な思いをすることになるし、証拠の捏造は、市民の裁判員制度に参加する動機を根底から消し去るばかりか、致命的に時代に逆行する行為である。

先日「それでもボクはやってない」という痴漢冤罪を題材とした映画を見た。周防正行監督によれば、「あの映画では、視点はすべて当事者からのもので、客観的な第三者の視点(これが真実だと映画制作者が示唆するような視点)は一切入れていない」という。警察、検察の強引な捜査方法の実態を剔抉することが一次的な主題であると、私は解している。また、公職選挙法違反事件で無罪が確定した冤罪の「被害者」が語るところによれば、最終的に取り調べ官は土下座をしてまで自白を要求したらしい。この不健全極まりない制度的瑕疵の根本原因を改善出来ねば、冤罪発生を防ぐことは困難だろう。事実を事実とされない被害に遭った訴訟当事者の立場からから見れば、時に単なる「事実」は、「獲得された真理」よりも、また、「明白な真実」よりも、人の一生を左右するほど重い意味を持つ言葉になり得ることを強く実感したのである。

まず、事実を事実とすること。人間に銃口を突きつけても、黒は黒であることをやめない。

白が白である街、
街が街である街に、私は住んでいる。

 


 


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