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FCバルセロナ論  -史上空前の最巧チーム-

 

  有史以来,未出現であった宇宙が地上に現れている。「複数の人間は同時に一つの意識を持ち得ない」という公理を覆す組織が出現したのだ。すなわち,11人の意識は限りなく密である。

 「近代サッカー」とは効率を教祖とする信仰だ。それは1+1+1+1+1+1+1+1+1+1ではなく1+9という方法で10にする。いわゆる速攻合理論の誕生である。馬鹿な!

  攻撃の人数を増やせば守備の人数は減少する。かといって守備の人数を増やせば攻撃の人数は減少してしまう。このアポリアを,近代サッカーは,堅守速攻を暫定的に最適解とすることによって克服してきたのである。充分な思考を注げば発芽したであろう連動性の種子を摘み取ってしまう副作用を克服しないままに。

  はじめに,堅守速攻の背景には蹴球技術への不信がある。リスク管理の観点から,丁寧に時間をかけて攻撃するよりも相手の守備陣形が完全に整わないうちに攻 撃した方が合理的とされたのである。なんと窮屈なことか!そのためには,ミスを生じさせかねない小さいパスは出来るだけ省略し,一気に前線にロングボールを放り込む方法が良とされ,サッカーは計画性の乏しい出たとこ勝負になってしまった。「効率信仰」は,勝敗のほとんどを「運」に決定させてきた責任を今こそとらねばならない。

 そもそもサッカーボールは何故存在するのだろう。それは見るためでも投げるためでもない。人が蹴るために存在しているのである。しかし人の足はボールを蹴るために存在するのではない!欲速不达。近代サッカーがその意を解すには一人の人物を待たねばならなかった。すなわちジョゼップ・グアルディオラ・イ・サラその人である。

 なによりも,近代サッカーに負わされた「効率」 の呪縛を解き,サッカーを自由にしたF.C.バルセロナの功績が讃えられなければならない。11人の知は考え,ていねいにボールを扱い,パスを無限に接続させる方法で最適解を止揚したのだから。スポーツは勝利を望む。しかし,バルセロナのボールが「願望」を運ぶことはない。「思考」という翼を与えられたボールは必然の曲線を描き,共有されたイメージを具現化させてゆく。それは,どうすれば「1」を「3に変化しやすい2」に変化させられるかという意識が駆動する動画であって,バルセロナは,1の横に9を置き偶然的な加算によって成立する10を期待することは決してないのである。おぉ!連動性の種子は今,ピカソ的発芽を迎えている!

 指揮官グアルディオラは,試合前日に行う暗室での瞑想により「統計」というイドラを克服するという。統計を無視する?どうやって?確かに,主力選手を怪我で欠くという避けがたい困難な状況は,前例のない采配によって何度も克服されてきたし,「フォーメーション」という概念も実体を欠く数列として形骸化させてしまった。最近,カタルーニャの詩人ミゲル・マルティ・イ・ポルの14詩編の1つである L'hoste insolitの朗読※で作曲にも参加したこの異才は,「サッカーの監督」には読解不可能な深度にまでその戦術哲学を掘り下げているように思える。

  世界各国の子供がバルセロナのユニフォームを着て登校し始めている。なでしこジャパンの佐々木監督を含む少なくない監督がバルセロナを手本としている。つまり,バルサのサッカーは正しく魅せている。現在「バルサらしい」とは,力でねじ込むゴールではなく高度な連携性を持つ必然的なゴールを指すようになった。バルセロナはサッカーを原点から出発させ,原初の記憶を選手間で共有出来るのだ。人間集合はここまで緊密に連動,あるいは呼吸を合わせられものなのか。あたかも一つの意識で全体が連動する原生生物のように。F.C.バルセロナはサッカーの美術化に貢献しているのである。

 確かにバルセロナは現在進行形で空前の金字塔を打ち建てている。しかしグラウンドに映し出されるのは決して完全な人間の姿ではない。むしろそこで露わになるのは一個人としての不完全性であり,それをお互いに最高限度まで補い合う人間の叡智である。西暦2012年,我々はそれを実時間で目視し得る特権的時間の内に生きている。

 

http://youtu.be/cIl86yy__8I

201226日。メッシ氏と澤選手の対談が実現したことを記念して。


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